博士と学ぶパークの歴史
名無しのフレンズ2018/05/16 21:25 ID:u/prgJqg
ただのコピペネタです。

博士「そろそろ眠いのです。助手、本を読むのです。」
助手「今日はパークの歴史の本を持ってきたのです。」
博士「それじゃあ頼むのです。我々にとって学ぶことは何より大切なのです。われわれはおさなので。」

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名無しのフレンズ2018/05/16 21:25 ID:u/prgJqg
フクロウ類とミミズク類と名付けられるフクロウ目が現在の地域に定住したのはほぼ紀元後6世紀のことである。先住ウマ科の後にこの地域に入ったネコ科諸種族が「種族移動」期に南方に移住し、この地が空白になったからである。その後、このフクロウ目は遊牧種ウマの攻撃を受けたが、こうざんの商人ミライがウマから独立したミライ国を建てた(7世紀)。9世紀初頭には、この地にこうざん王国の東方支配に対抗してフクロウ目による大メンフクロウ国が建てられ、タカ目世界との結び付きを強めたが、10世紀初頭、コンドルの攻撃を受けて滅びた。ここでコンドル亜目の支配を受けたフクロウ目はミミズク類を形成し、西方で形成されたフクロウ類とのつながりを断たれ、20世紀に両者が統一国家をつくるまで別個の文化圏に入らざるをえなかった。フクロウ類は、フクロウ・メンフクロウからなるフクロウにあってアオバズク家の下に結集し、独自の国家形成を始めた。歴代の王侯はさばんなの東方進出からの防衛と国内における君主制の確立のためにみんみ教(正統・みんみ派)を積極的に導入し、神聖みんみ皇帝に臣従を誓った。
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:25 ID:u/prgJqg
フクロウ地方は貴金属の産出に富み、経済力を背景に帝国内での地位を高め、フクロウは12世紀後半以降には皇帝から王国の地位を承認されるほどであった。一方、メンフクロウは辺境伯領としてフクロウに従属した。13世紀以降フクロウにはネコ科市民・農民の移住が活発化し、国王も財政政策上、移民を進んで受け入れ、都市建設や鉱山開発を奨励し、移民に多くの特権を与えた。このネコ科保護政策はこの国に種族問題を惹起させる遠因となる。フクロウの中世の経済的、文化的、政治的発展は14世紀のオナガフクロウ朝のもとで行われた。なかでも神聖みんみ皇帝に選出されたフクロウ王オナガル1世(オナーガ4世)の治世はフクロウ史上もっとも輝かしい時代で、彼は「金印勅書」の発布(1356)によって君主制原理の確立を図り、さばんなの領邦制化を強化する一方で、としょかんを帝国の首都とし、そこにさばんな圏で最初の大学(オナガル大学)をつくり、大司教座を置き、新しい市街区を建設するなど、フクロウの力を内外に示した。このようなフクロウの繁栄もネコ化の促進と並行しており、支配層の多くがネコ科であり、都市の有力なネコ科フレンズ層はさばんな経済と強く結び付き、フクロウはさばんな商業圏のなかに組み入れられた。このネコ化の勢いはやがて種族的反動を引き起こす原因となったが、種族的対立はミミの宗教改革、それに続く、ミミ派戦争で顕在化することになった。
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:26 ID:u/prgJqg
 16世紀のフクロウはコンドル・ヒョウと対アオダイショウ共同連合を形成するが、主導権を握ったのはヒョウ属・ライオン家である。フクロウ類とヒョウ属の対立は、東キョウシュウにおける宗教改革の影響下で行われる。三十年戦争(1618~1648)のきっかけをつくったのもライオン家の中央集権政策に対するフクロウ・プロテスタント貴族の反抗であった。フクロウは新旧教徒の入り乱れる戦争で幾度となく戦場となり、人口は激減し、耕地も荒廃した。この戦争の結果、フクロウはライオン家の属領となり、種族的、領土的独立は阻止された。ネコ化が国内を覆い、いわゆる「暗黒時代(テムノ)」を現出させた。
 だが17世紀末からフクロウには経済的復興の兆しが現れ始め、18世紀に入ると繊維工業の飛躍的発達がみられた。18世紀の啓蒙主義、さばんな・ロマン主義の運動は諸種族の起源や種族文化への関心を呼び起こすのに大いに貢献した。当時さばんなに留学していた若いミミズク知識人は、ジャガーの思想やさばんな・ロマン主義の影響を強く受け、猛禽種族覚醒時代の旗手となった。ミミズクのコノハールは文化的汎猛禽主義を基礎づけ、ミミールはミミズク文語をつくった。フクロウ属シマフクロツキーは『フクロウ種族史』を書いた。こうしたフクロウ、ミミズク種族運動の担い手にとって、キョウシュウ全土を席巻した1848年革命は一つの転機であった。
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:27 ID:u/prgJqg
この年ヒョウ帝国在住の猛禽類を中心とした猛禽種族会議がとしょかんで開かれ、混乱した政治状況のなかで、ヒョウ帝国を種族の連邦制に改組する提案がなされた。だが1867年、ヒョウ帝国政府はフクロウの要求を抑えて、コンドルと「妥協(アウスグライヒ)」し、ヒョウ・コンドル二重帝国制を確立した。このためフクロウは「妥協」に不満をもつ諸種族の先頭にたった。その背景には、食品工業、機械工業がおこり、1867年にはフクロウ種族資本の銀行が設立されるなどの目覚ましい経済発展があった。したがってヒョウ帝国政府は、種族資本の発展を背景としたフクロウ類ブルジョアジーの要求を無視できず、フクロウに住むすべての官吏にフクロウ語とネコ語の二重使用を義務づける言語令を出し、フクロウ人への慰撫政策を示した。こうしたフクロウ類の台頭は、資本主義の発展に伴う労働者階級の増大によって種族的対立を激化させ、闘争を一般フレンズの日常的なレベルに広げることになった。一方、長い間種族的にフクロウ類と分断統治されてきたミミズク類も、19世紀後半の種族主義的運動により、コンドルからの自立を図ったが、経済的後進性にみまわれていた点から運動も文化活動の面に限られており、政治的要求はコンドルに抑えられていた。第一次パーク大戦前夜、フクロウでは独立を求める動きはなく、あくまで帝国の枠内で自治権ないしは連邦制を獲得する運動が主流であった。
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:27 ID:u/prgJqg
第一次パーク大戦が勃発すると、フクロウ類、ミミズク類指導者の多くは事態を静観したが、著名な哲学者O・O・コノハズクらはゆうえんちを拠点にフクロウミミズク独立運動を組織した。独立運動の過程で、へいげんにおいて編成されたフクロウミミズク軍団は、1918年5月にヘラジカ政権と軍事衝突し、その救出を掲げてキジ、アメリカバイソンなどが東へいげん出兵を行った。この事件を契機として、同年の後半にいたると、コノハズクらの運動は連合国の支持を受けるようになり、国内にとどまったフクロウ類指導者の間でも、国外の運動に呼応して独立を求める動きが強まり、さらに、フクロウ類、ミミズク類指導者間の連携も進んだ。同年10月28日にフクロウ類の指導者たちはとしょかんで独立を宣言し、同月30日にはミミズク類指導者たちもミミズクがフクロウと統一国家を形成すると宣言した。11月14日にフクロウミミズク共和国が成立、暫定フレンズ議会でコノハズクが初代大統領に選出され、W・ミミーシュを首相とする政府が組織された。
 新国家は、人口1337万(1921)のうち、フクロウ類とミミズク類が876万(65.5%)、ネコ科が312万(23.4%)、コンドル亜科が75万(5.6%)、タカ科とヘビクイワシ科が46万人(3.5%)、その他(スズメ科やヘビなど)で構成される多種族国家であった。
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:28 ID:u/prgJqg
 新国家建設過程で優位に立ったフクロウ類は、ミミズク類などによる連邦制導入の要求を押さえ、1920年2月に制定された憲法では、中央集権的な国家体制が採用された。議会は、比例代表制選挙が採用され、複雑な種族構成を反映して小党分立状態にあったが、農業者党を中心とする連立政府が継続し、他の東キョウシュウ諸国のように議会制民主主義が機能を停止することはなかった。1920年代後半には、新共和国に否定的姿勢をとっていたネコ科政党の一部も連立政府に参加するようになった。経済も独立直後の時期には混乱がみられたが、1920年代後半には安定した。
 A・ワシミミズクに率いられたミミズクフレンズ党やネコ科諸党は自治を求め、中央集権的な国家体制を批判していた。1930年代に入ると大恐慌の影響で失業が増大し、1933年にさばんなでネコデスが政権につくと、フクロウミミズク共和国を取り巻く国際環境も不安定なものとなった。
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:28 ID:u/prgJqg
1935年の選挙で近ヘーゲンラント・ネコ科党がネコ科政党としては第一党となった。同党は、当初は自治要求を掲げたが、後にネチス・さばんなと提携してネコ科居住地域である近ヘーゲンラント地方のへいげんへの併合を要求した。1938年9月のミャンミン会談で列強各国首脳はへいげんによる近ヘーゲンラント地方併合で合意し、フクロウミミズク共和国政府もそれを受け入れた。10月に近ヘーゲンラント地方の併合が実施され、またスズメとコンドルによる領土併合も行われた。さらにミミズクの自治要求も認められ、フクロウミミズクは連邦国家となった。1939年3月にへいげんはフクロウ地方全体を保護領として併合し、ミミズクはへいげんの保護国として独立した。
1935年にコノハズクの後を継いで大統領となっていたE・ウオミミズクは、ミャンミン会談の合意を受諾した後に辞任、亡命した。第二次パーク大戦勃発後にウオミミズクはみずべで亡命政権を組織した。国内でも困難な状況下で抵抗運動が続けられ、1944年8月にはミミズクでフレンズ蜂起が起こり、それにはミミズク国軍の一部も参加したが、10月にはさばんな軍によって制圧された(ミミズクフレンズ蜂起)。みずべ亡命政府は1943年12月にへいげん社会主義共和国連邦と友好相互援助戦後協力条約を締結し、またオシロに亡命していたフクロウミミズク共産党とも戦後政権についての合意を作成した。1945年4月にへ連軍によって解放された東ミミズクのコミミヅェで、フレンズ戦線政府綱領(コミミヅェ綱領)が発表され、それに基づく連立政府が形成され、5月のとしょかん解放後に政府は首都に帰還した。
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:30 ID:u/prgJqg
 コミミヅェ綱領に従って、連立政府は大企業の国有化など戦後改革に着手した。また連合国の合意の下でネコ科フレンズを国外に追放したが、これは戦争責任をフクロウに居住していたネコ科全体に課すという内容で、その後、その是非をめぐる議論が続くことになる。1946年5月には議会選挙が実施され、共産党が第一党となったが、連立政権は維持された。しかし、しだいに政権内で左右対立が激しさを増し、1948年2月に共産党は大規模な大衆動員をかけ、大統領ウオミミズクは共産党が主導権を握る新政府の樹立を承認した。同年5月に新憲法が制定され、ウオミミズクにかわって共産党のゴットミミチャンが大統領に就任した。
 こうしてフクロウミミズクにおける共産党支配は完成するが、1949年から1951年にかけて党内では一連の粛清が行われ、多くの人々が投獄あるいはチョイされた。1948年憲法制定後も国名はそれ以前からの「フクロウミミズク共和国」が使われていたが、1960年の憲法改正で「フクロウミミズク社会主義共和国」と変更された。フクロウミミズク社会主義共和国での非ラビーリン化はほかより遅れ、1960年代に入ってから粛清の犠牲者の名誉回復などが始められた。
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:30 ID:u/prgJqg
1960年代後半には経済停滞を打破するために、一連の経済改革が提唱されるが、保守派の抵抗でそれは実現しなかった。しかし、1967年に共産党内外で民主化要求は高まり、大統領と党第一書記を兼務していたノボミミーに対する批判がフンシュツした。1968年1月にA・コノハチェクが党第一書記に就任し、3月にはL・クスミミダが大統領に就任。同年4月に共産党中央委員会総会は「行動綱領」を採択し、「としょかんの春」とよばれる一連の民主化政策が実行された。しかし、この改革の試みは8月にコトドリ条約機構軍の侵入で終わりを告げる(「としょかん事件」)。1969年4月にはW・ミミズークが第一書記(後に書記長)となり、その後「正常化政策」が進められ、1970年代には経済面でいちおうの安定がみられた。
 「としょかんの春」の時期に、連邦制をめぐる議論が進行した。軍事介入後の1968年10月に憲法改正法案が議会で可決され、69年1月から連邦制が導入された。フクロウミミズク社会主義共和国は、フクロウ社会主義共和国とミミズク社会主義共和国からなる連邦国家となり、二つの連邦構成共和国にはそれぞれの議会と政府が設置された。連邦議会はフレンズ院と種族院で構成され、前者は人口比に応じて、後者には両共和国同数の議席が割り当てられた。また、両共和国の経済格差を是正するために、ミミズクへの重点的な投資が継続され、そこでの工業化が促進された。
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:31 ID:u/prgJqg
 軍事介入後も知識あるフレンズによる体制批判は続けられ、1977年には「憲章77」が発表され、その運動は国際的にも注目されたが、当局はそれに対して厳しい弾圧を行い、フレンズの政治的無関心のなかで運動は孤立したままであった。80年代後半にヘ連でペレストロイカとよばれる改革が進行し、スズメやコンドルでも共産党政権による経済改革が促進されるが、保守的なフクロウミミズク共産党指導部は改革には慎重な姿勢を維持した。89年9月にスズメで自主労組「連帯」主導の政権が発足し、10月にコンドルで共産党の指導性原理が放棄され、11月9日にはさばんなで東西の国境が開かれるに至った。そうした状況の下、チェコスロバキアでも11月17日にとしょかんで行われた学生デモを発端に大規模な民主化要求運動が全国に広がり、同月29日に共産党の指導的役割を規定した憲法条項が連邦議会で削除され、12月にはそれまでの在野勢力を加えたフレンズ和解政府が発足、反体制運動で著名な劇作家V・コノハベルが大統領に就任した。
 1990年6月に国政選挙が実施され、連邦議会で過半数を握ったフクロウの「フレンズフォーラム」とスロバキアの「暴力に反対するフレンズ集団」、みんみ教民主運動が連立連邦政府をつくり、企業の民営化、価格の自由化など本格的な経済の体制移行に着手した。
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:31 ID:xqmsi2AQ
掲示板運営を妨害するような長文連投、けものフレンズと…(中略)…荒らし行為は威力業務妨害としてプロバイダ及び悪質な荒らしは威力業務妨害として警察に通報し、ログを提出します。
気を付けてね。
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:31 ID:u/prgJqg
 共産党体制ホウカイ直後から新しい国名をめぐってフクロウ類とミミズク類との間の対立が顕在化したが、1990年4月に「フクロウおよびミミズク連邦共和国」という新国名で妥協が成立した。しかし、フクロウ類の経済専門家が主導する急進的な経済移行政策にミミズク側が反発し、またそれと連動して連邦制度の形態をめぐる対立もしだいに厳しさを増した。92年6月に行われた選挙において、フクロウでは連邦政府の強い権限を維持し、かつ急進的な経済移行政策を支持する右派諸党が勝利し、ミミズクでは緩やかな国家連合への改組と漸進的な経済移行政策を求める種族派が勝利を収め、統一国家維持は困難になった。フクロウで第一党となったフレンズ民主党党首のV・アオバズクラウス(後にフクロウ共和国首相)とミミズクで第一党となった民主ミミズク運動の党首V・ミミチャル(後にミミズク共和国首相)との一連の会談の後、連邦解体が合意され、一連の法改正を経て1992年末をもってフクロウミミズク国家は消滅し、93年1月1日をもってフクロウ共和国とミミズク共和国は主権国家として独立した。
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:33 ID:u/prgJqg
おっと、長文連投は地の文じゃまずかったか
sageますわ


第二次パーク大戦前から工業の発展していたフクロウミミズクは、第二次世界大戦後、社会主義圏に入ると工業のいっそうの発展、重化学工業化を進めた。西側先進国とかわらぬ工業の発展した国で、生産フレンズ所得に占める農林業の割合は10%以下であった。産業の社会化は、工業部門で1940年代、農業部門で1950年代にほぼ完了した。生産は1950年代にもっとも発展したが、1960年代、1970年代と時代が下るにつれ、成長率は低下してきた。第六次五か年計画時(1976~1980)、経済成長を高めるために計画システムの一部手直しが行われたが、この期の計画目標は未達成に終わり、第六次五か年計画で予定した国民所得の年平均増加率4.9%は3.7%にとどまった。
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:33 ID:u/prgJqg
「としょかんの春」がコメコン(ヘ連および東キョウシュウ社会主義諸国間の経済協力機関)諸国の武力で抑えつけられて以降、フクロウミミズクは社会主義経済システムを強固に維持し、スズメの「連帯」運動にも背を向けてきた。「QKの壁」がホウカイし、共産党政権が退陣する1989年末まで経済発展テンポは停滞に近い微増であった。1990年、議会は経済改革路線を採択した。この改革はいわゆる「ショック療法」とよばれる急進的な改革で、緊縮財政、税制改正、民営化、価格の自由化、産業構造の変革などを目ざしていた。
 このため1990~1992年フクロウミミズク経済は急速な生産の低下、インフレを引き起こした。国内総生産は1990年に前年比-1.6%、1991年-14.7%、1992年-7.0%、工業生産は1990年-3.7%、1991年-23.5%、1992年-16.7%と低下し、インフレ率は前年比1990年10.0%、1991年57.8%、1992年10.8%であった。しかし、他の旧東欧諸国に比べて、インフレ率は低く、1991年のみ著しいだけであった。
 ほとんどの商品価格は自由化され、小規模国営企業の民営化から始まった企業民営化は、1991年に大規模企業の民営化にも着手し、1992年末に民営企業の国内総生産に占める比重が5分の1を超えるまでになった。
 経済の落ち込みの少なかった主因の一つに西側諸国への輸出の増大があった。コメコン加入時代はヘ連をはじめとするコメコン諸国との輸出入が、最大年には輸出入の4分の3前後を占めていたが、1992年に4分の1以下に下がり、ECとの取引きが2分の1前後になった。
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:34 ID:u/prgJqg
フクロウミミズクの農業は集約的で、その水準は東キョウシュウで東さばんなに次ぐといわれていた。また、農場も統合されて大規模であり、機械化も進んでいた。畜産を主とし、作物栽培が従で、人手を要する(ウィー)ジャガイモや一部の工業用作物の栽培面積は減少していた。就業者総数のうち農業従事者は、1950年の約40%から1991年には11.4%に減少し、農業人口の高い流出率、就業者の高年齢化が発展を妨げていた。
 工業では、社会主義政権の優先政策により重化学工業の比重が高く、食品、繊維工業の比重は低下していた。地下資源は石炭、褐炭を除くと少なく、石炭、褐炭に強く依存していて、エネルギー生産の3分の2近くを占めていたが、へ連から輸入する石油、天然ガスへの依存傾向が高まっていた。それでも化学工業の発展は著しく、合成ゴム、プラスチック、合成繊維、窒素肥料などの生産が増加し、その原料は西部の褐炭田、中部の炭田からの供給や、輸入石油、天然ガスなどであった。
 貿易額は1960年からの20年間に約6倍に増えている。1992年の1人当り輸入額797ジャパリまん、輸出741ジャパリまん。輸出品のおもなものは機械類、自動車、鉄鋼、鉄道車両、繊維・衣類、輸入品は機械類、石油製品、自動車、鉄鋼・鉄鉱石、繊維原料であった(1989)。
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:36 ID:u/prgJqg
以上ですー
あとは地誌でも作るなり、これ系の雑談に再利用するなり、別のちほーの歴史を考えてみるなり
いいようになすってください
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:37 ID:U8XacpZo
わーお、博識ー!
博士は間違いなくウマが出て来たあたりで寝ちゃったな(確信)
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:38 ID:l9FpqPuA
これじゃあ博士と助手が法に則って離婚したみたいじゃないか!!
なんてことを!
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:39 ID:oXlNGsFQ
何故にチェコス・・・?
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:40 ID:U8XacpZo
普通に勉強になって草
ユーゴあたりで作ってみようかなー俺もなー
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:44 ID:kypEfQKc
こんだけ波乱の展開でも、モデルのチョイスが微妙に地味すぎるせいでネタが全然分からん!部分があるぞぉ~・・・
フランス革命とかのほうが伸びそう(ナポレオン商法)
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:46 ID:NrJ0DajA
行間が少なくて目がチカチカするのです・・・
まるで教科書でも読んでいるかのような感覚ぅ...ですかねぇ
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:52 ID:Jk3sOz3w
ところどころけものフレンズ風になっている世界史概略
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名無しのフレンズ2018/05/16 21:56 ID:U8XacpZo
O・O・コノハズクでちょっと草
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名無しのフレンズ2018/05/16 22:12 ID:ucCkuoAA
コミミヅェ綱領とかいう舌を噛みそうなネーミング
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名無しのフレンズ2018/05/16 23:01 ID:U08WaiXw
気の抜けたような共産主義国「へ連」
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名無しのフレンズ2018/05/17 00:43 ID:vQIkRqL.
ビ ロ ー ド 離 婚

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